西日本紀行
Kizawa elementary school Toyama-village, Nagano
a traditional working-class neighborhood Fukushima Ward, Osaka
oyster farm Hinase town, Okayama
junior high school students Kumamoto-city, Kumamoto
3月の中旬、ふと思い立って、1週間の旅に出た。最終目的地は、熊本。なんだかんだで旅費が嵩むのだから、だったらいっそ西日本に点在する友人知人のもとを訪ねてまわろうと思った。電車、飛行機など、公共交通は一切使わない。愛車のマーチ一台、運転手一人で、松本〜熊本間を1週間で旅する強行プランとなった。
今は合併して飯田市の一部になっているが、かつては下伊那郡遠山村と呼ばれた南信濃には、廃校となった旧木沢小学校を維持管理の目的でギャラリーにリニューアルする作業をつづける友人がいた。その晩、元給食配膳室のスタッフ事務所には、村の長老たちが集まってくれた。信州の年配者は、遠慮なしに酒を注いでくる。もう飲めないというのに、ぼくのコップは常にすれすれ一杯入っていた。
岐阜では、デザインとファシリテーションをツールに、街が歴史的にもつ精神的豊かさを再興するという大きなヴィジョンをもって働く友人に会いに行った。デザインやファシリテーションが成功するとき、それはツールによる成功ではなくて、ツールを用いた人間の性質によるものだとぼくは思っている。事務所を立ち上げて7年、当時は隣人とも街とも分断されていた市民が、今では自ら街の歴史や未来に対して、それぞれの考えをもって眼差しを向けはじめている。友人の仕事に、ひたすら感服した。
旅の宿は、すべて友人知人を頼った。が、関西のみ旅程に合致するものがなく、車中泊を決め込んでいた。ところが、日暮れ頃に立ち寄ったフォトギャラリーのオーナーが泊めてくれると言う。オーナーは、ぼくも読んでいる雑誌に写真と記事を掲載する写真家でもあった。若かれし頃の話から写真家になる経緯まで、深夜、聞かせていただいた。あの夜の静けさと豊かさ、その泉になっている写真家に出会えたことをぼくは幸せに思う。翌朝6時、まだ就寝中のオーナーに手紙とわずかばかりのお礼をおいて、大阪を後にした。
高速道路を走るのに飽きて、赤穂で高速を下り、次の宿がある岡山県津山市の山間の村まで、下道を延々と走った。ぼくの生まれは広島だ。幼少期に離れてしまっているとはいえ、瀬戸内の景色はぼくの精神風景の下地になっている。日生の港からは、小豆島へのフェリー定期便が出ていた。海に接岸して暮らす日々とはどんなものだろう。岡山での宿泊の後は熊本までずっと高速だった。いずれ山陽・山陰の海岸線を走ってみたい。
熊本は、4月から政令指定都市になるのだそうだ。住所も「区」から始まるようになる。昨年の春、東京・渋谷から熊本に移り住んだ友人を訪ねた。築100年の町屋を改装しながら暮らしている。彼らの住まう地域は熊本市内でも古い町並みが残る。このエリアも何らかの「区」に属するのだと思うと、妙な違和感もある。街は時代のなかで変化せざるをえない。そのつど妙な違和感を抱きながら、受け入れられたり拒まれたりしながら、それでも街を運営していく。
日本でもっとも海から遠いところから、海抜ゼロメートル地点まで、総走行距離およそ1100キロメートルを1週間で往復した。矢継ぎ早にさまざまな自然環境に配された街々を通ることになったので、それぞれの街のコントラストがくっきりと頭に焼きついている。宇宙船のコックピットのように小さな車での旅だったから、車体の揺れや室内外の温度差などを通して、日本の地形や気候も感じることができた。
これからの日本をどう生きよう。そんな大きな設問にこれだという解答を見出そうとして、毎年毎年啓発的な映画や誰それの名著が世に出るが、それはそれで一定の価値があると認めつつ、もうそろそろ各人それぞれの土地に入り、自らの感性と言葉とからだで具体的に働きかけていくことのほうが、ぼくには意味があるように思える。具体を生きる。それが、この旅でぼくが感じたことだった。