鷺のように

 

若い頃は、自分の中に、言葉が溢れ返っていて、定期的にそれらを外に出してやらないと、身の内の気が淀んでたまらなかった。それが私小説のようになったり、エッセイのようになったり、そして詩にもなった。慌てん坊で、落ち着きがなく、輪郭は棘が立っていて、チヤホヤされたくて、愛情に飢えている、子どものような言葉たちだった。当然子どものようだから、憎いわけもなく、どちらかといえば、それはそれで愛する甲斐のある言葉だったと思う。まあ、少し、鬱陶しいが。

いま、世界や時代の中で起こっていることに対して、感じること、考えることはたくさんある。それに応じて、やはり言葉も生まれるのだけれど、どういうわけか、外に出ていこうとしない。いや、玄関くらいまでは行くのだ。ただ、あの日のように、Tシャツと短パン姿で、サンダルをつっかけ、飛び出して行くようなものではなくなった。ジャケットを羽織って、靴紐をちゃんと結んで、さあと立ち上がるも、戸の把手を手にしたあたりで、ああ、やっぱりいいか、とリビングに引き返していく。物静かで、呼吸は深く、しかし眼光は以前より比べ物にならないほど鋭く危険で、だから自分でもその処理にくたびれるのだろう、語るより目を閉じることに、誘われてしまう。

若い頃よりも感性はずっと目を覚ましているが、言葉を乱打することは、もうない。川辺にすっと立ち上がって、何分も動かない、鷺のように、静かにしている。来るべきその瞬間まで。

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