暗いぐらいの家 #9 サニタリーの小気味よさ

2017年2月。ぼくは今、猛烈に、正月に戻りたいと思っている。理由は二つ。ひとつは、確定申告。年明けから山積みのデザイン案件と、3月中旬に始まる個展準備で、頭も手も一杯一杯なのに、最も苦手な数字と相対さなければならない。

もう一つは、銀行数社による住宅ローン審査の結果を待つという、何とも重々しい時間が、我が家に流れているからだ。ぼくがどんなに頑張って毎年少しずつ収入を増やしていても、保証会社は、律儀に、数字だけを見る。雨の中、負け戦とわかっていて、それでもなおマウンドに登らざるを得ない、敗戦処理投手の気分だ。そもそも、見ず知らずの赤の他人に「審査される」というシチュエーションが、いけ好かない。とはいっても、銀行からの支援の手無くして、我が家は建たない。建たないと決まれば、この連載を続けるという責任も果たせない。ここは大人、ぐっと堪えて、審査にこの身を晒す所存だ。もしかしたらもしかして、最終回、チームが逆転してくれるかもしれないのだから。可能性が可能性である限り、不可能はこの世にあり得ない。

 

さて、ローン審査の結果を待つ間、何の話をしよう。そうだ、ここはひとつ、風呂の話でもしようじゃないか。その日、負けようが勝とうが、ぼくらは一風呂浴びる。リビングやキッチンについ目が行きがちだけれど、一日の最後を締めくくるバスタイム、それを過ごすバスルームを考えることは、大切に思える。そして何を隠そう、今回、自分の家をデザインするにあたって、最初の最初に描きはじめた部屋、それがバスルームだったのだ。

バスルームと書いたが、正確には、新居にバスルームはない。バスタブ、シャワー、洗面が一つの部屋に格納されている「サニタリー」となっている。このアイディアの元となっているのが、英国・スコットランドで過ごした日々だ。

 

 

 

▼ぼくが一番最初に描いた、1階の間取り図から。「シャワー(メイン)」と、しっかり注釈まである。配置は、後に出てくる、エディンバラの友人一家のサニタリーと、まったく一緒。距離感などはまるでわからないから、いい加減だ。これを、「リスと設計室」の横山さんに渡して、図面化してもらった。

 

▼その後、何度も何度も修正を重ねて、これが現在の、サニタリーの最新図面。これも、もうひと手間、ふた手間、修正が入る予定。バスタブの上を走るリブレールは、横山さんが提案してくれて採用となった、洗濯物用の物干し竿。洗面台は、東京のショールームを何箇所も回って、やっと決めた。(図面設計:リスと設計室・横山奈津子)

 

 

 

2012年から毎年、詩を書くために、そして詩とは何なのかという壮大な問いに対する自分なりの答えを探しに、英国・スコットランドを訪ねるようになった。お金はないから、その都度、現地で知り合った友人宅に泊めさせてもらう。そこで出会ったのが、シャワーがメインのバスタイムだ。乳幼児のいる家庭は、子供のためにバスタブに湯を少し溜めるが、大人たちが湯船につかることは滅多にない。代わりに、ガラス張り・四角柱型のシャワールームで、さっとシャワーを浴びる。

これが何とも小気味いい。まず、「ここは汗を流す場所なのだ」という、空間に対する意図があまりに明確であることの愉快さ。そして、そのため「洗ったら、すぐ出る」ので、無駄な時間を過ごさずに済む、あっけらかんとした効率性。まったくもって、ぼくの性に合っていて、惚れてしまった。「風呂+10分シャワー」と「30分シャワーのみ」を比較したとき、水道代とガス代は同額になるという試算もある。シャワーなんて、浴びて、10分から15分だから、経済的な面からみても、良策なのではと思った。

 

 

 

▼昨年グラスゴーでお世話になった友人宅では、シャワーはバスタブにある。かといって、湯を溜めるわけではない。バスタブに皆立って、シャワーを浴びる。すぐ脇の洗面台とバスタブは、その境に、一枚のガラスが付いているだけで、当然、シャワーの飛沫がバスタブの外へ飛び出し、床はしっとり濡れるのだった。

 

▼毎年訪ねるエディンバラの友人一家の、サニタリー。英国の住宅の暖房システムは、セントラルヒーティングによるもの。各部屋に取り付けられたヒーターは、当然サニタリーにも。タオルをかけたり、洗濯物を乾かしたり、何かと便利。こちらのサニタリーでは、シャワールームがバスタブと独立。ただ狭い。肘をぶつけたり、シャンプーを落としたり、最初は苛立つが、次第に愛おしくなってくる。

 

▼そのシャワールームのすぐ横にあるバスタブ。蛇口には、2歳半になる子どものおもちゃが詰まっている。バスタブから出ると、もうそこにはトイレがあり、トイレから立ち上がると、目の前は洗面という、狭小空間。細部にこだわりたい日本人からしてみたら、文句の付け所が満載。でも、ぼくはこの暮らしが好きだった。暮らしって、本当はこんなふうに、「必要な分」があれば事足りるのだと、感じられた空間。

 

 

 

面白いことがあった。ぼくが「新居はシャワーだけにする」というと、日本人の友人は皆、「お風呂がないと、私はダメだなあ」と、口を揃えて言った。いわゆる、お風呂派、だ。妻も同じく風呂好きで、計画段階で「やっぱりバスタブは欲しい」という要望があった。子どもが生まれたりでもしたら、湯船は必要になるし、ぼくも年に2〜3回は使うから、まあいいじゃないかと、バスタブはつけることにした。

とはいえ、ほとんど彼女しか使わないし、使っても半身浴だし、どのみち、追い焚き機能は要らない。それに、せっかく一からデザインしているのに、ここだけユニットバスなのも、何だか締まりが悪い。結果、必然的に、床置き式のバスタブになった。

この床置き式のバスタブ探しがなかなか大変で、いいデザインだなと思うと、右目と左目が入れ替わってしまいそうなくらい(そんな例え、あるだろうか)の高値だった。色々悩んだ末に、空間においてもまあまあ遜色のない、比較的安めのものを選んだ。

新居の周囲には、温泉が多い。ぼくの友人たちが風呂に求める最大の理由だろう、「癒し」は、温泉に行けばいい。小さな浴槽に、お湯をたっぷり溜めて、何度も焚いて、洗うときはシャワーを使う。そんなふうに資源とお金を使うくらいなら、疲労困憊したときに、源泉掛け流しの広々とした温泉に浸かって、最大限、リラックスしよう。そうやって、地域にお金を落とせるなら、本望だ。

大変といえば、シャワールームのヘッドシャワーを探すのも苦労した。新居建設予定地は「寒冷地」だ。シャワーに限らず、洗面やキッチンのタップは全て、寒冷地仕様でなければならない。が、寒冷地仕様を謳うヘッドシャワーがなかなかないのである。結局、日本では2社の製品しか見当たらず、言わずもがな、二者択一となった。

 

サニタリー一室だけでも、考えること・探すこと・決めることは、山ほどある。上記には書かなかった洗面スペースでも、洗面台、蛇口、それに付随して収納、鏡を考え、探し、決めなければならなかった。さらには照明もある。電源もある。どこに立ち、そこで何をし、どう去るのか。使う前の時間、使った後の時間、その場所はどうあるべきか。家を考えることは、暮らしを考えることであり、将来を考えることであり、生き方を考えることなのだと、思い知らされた。

どこかで根をあげたら、中途半端な仕上がりになる。小学校の夏休みの課題研究くらいなら、まあそれでも御の字だけれど(本当はそっちもそっちでちゃんとやらなきゃダメ)、ことは家である。一詩人にとっては、あまりに莫大な金が、目の前をゆっくりと横切っているのだ。

 

 

 

おっと、妻からメールだ。なになに、おお、何と、どうやらローンの仮審査がパスしたらしい。ああ、これで一難去った。いや待て、でも、あくまで仮審査である。本審査は、来月。油断は禁物だ。無念、祈る神は持ち合わせいないから、仕方あるまい、自分の実力と運を、信じよう。

 

また来月、この連載を書けますように。

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