暗いぐらいの家 #4 詩の原野より

 

 

草原が燃える

赤々と輝かしく

岩山は凍える

黒々と沈みながら

 

煙る風が雲を

空ごと引きずる

渡る鳥が列を

不意に乱す

 

西日が口ずさむ

遠い日の子守唄

湿地が潤み

海へ伝う潮の涙

 

 

湿地より

 

 


 

 

 

かわのほとりで

やすませて

あなたにもたれて

ただすこし

たっているのも

やっとなのです

 

にしへつよく

かぜがふく

うみどりの

しろいわたげ

すべてのゆめが

そうかろやかならば

 

かわをわたる

ひぐれまえ

ひともとの

ふといつえとなり

どうかわたしを

みちびいて

 

やぶのむこう

うしがこちらを

みています

ついにそのときが

きたのでしょう

 

 

ナナカマド

 

 


 

 

 

ほんとうは私

ひどく無口なの

愛想もないし

嘘ばかりなの

あなたはもう

きっと知っているのね

だから荒っぽく

私を抱き寄せる

そんなふうにしたら

洩れてしまう

ほんとうの私が

 

 

詩と原野

 

 


 

 

ひとが日常的に使っている言葉と、詩人が詩のなかで付き合っている言葉は、実は性質が異なる。前者は、何かを誰かに伝えるための、「メッセージ」としての言葉。後者は、ただそこにあるだけの、「存在」している言葉だ。

詩は苦手だと言う人が、その理由として、自身の語彙の少なさや読解力の乏しさを挙げるけれど、本当の原因は、詩のなかで扱われている言葉が、ふだん自分の使っている言葉と異なるものであることを、知らないまま読んでいるからかもしれない。

詩を読むのに必要なのは、語彙や読解力といった教養ではなく(そんなものは後からどうにでもなる)、おそらく、読み手の人生だ。自らの人生に吹き荒れる感情や出来事を、伝えるためでなく、まずただひたすらに描くために、どれだけ多様な言葉で表現しようと試みてきたか、その生きようとする心と試行錯誤の歴史が、死んだように横たわる言葉の羅列でしかなかった紙上の詩に、命を吹き込み、甦らせてくれる。

 

スコットランド北部。ハイランドと呼ばれるその荒涼とした原野は、「存在しているだけの言葉」である詩が、昨今の「伝えてさえいれば許される」という免罪符を得たいがために放たれる陵辱的な言葉から逃れて、本来の姿であれる場所、その余地がまだ残されている場所だ。

ふたりの友人とキャンパーバンで巡ったハイランドの旅では、どのエピソードを伝えようかと困ったくらい、とても素敵な出来事がたくさんあった。が、人ひとりいないダンドネルの小川を、海に向かって、羊たちに見つめられながら数時間歩いていて、思いを改めた。

今回は、言葉をそのままに、詩で残させていただいた。
それでは、また、次回。

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