暗いぐらいの家 #1 「正しさ」から始めないでみる

 

さて、どうやって生きていくか。大学を卒業するウチダ青年は、不思議に思っていた。なぜだろう。世界には、ぼくらがそうするより先に、まず「仕事」が住んでいるようだった。彼らは各々の玄関を開けて、ぼくらを待ち受ける。ぼくらはぼくらで、どのお宅でお世話になろうか、思案し、売り込み、選んでもらう。どうも釈然としない。順番がちがうのではないか。「ぼくらのすること」が「仕事」と呼ばれるはず。なぜ「仕事」が「ぼくらのすること」を選ぶのか。

 

 

ウチダ青年は決める。どのお宅にも世話にならない。持ち物は一切なし。あるのは自分自身、「ウチダゴウ」だけ。寝床もウチダなら、生活用品もウチダ、参考図書もウチダで、落とし穴もウチダ。ウチダがすることを、黙々と、淡々とやってみる。それがふと何かの間違いで、仕事になったら儲けもの。単純明快で、なんて清々しい。かくしてウチダ青年の新たな日々は始まった。詩を書き、デザインをしつづけてみた。そしてそれらはとりあえず、ぼくの仕事となった。

だから、である。「どのお宅にも世話になるもんか」と世界から逃げつづける人生を選んだぼくが、まさか「家」を建てようとするなんて、思ってもみなかった。今だってなお、半信半疑だ。

 

 

家を建てることは「所有」、つまり「どれかのお宅にお世話になる」ことに近い気がしていた。でも、なぜだろう。家を建てたって、外をふらついていいはずだった。ぼくがふらつくあいだに、誰かが使っていてもいい。そもそも、「建てた家」と「借りる家」は、何がちがうんだろうか。たとえば、家とホテルは、何がちがうのか。ふと立ち寄った喫茶店と何がちがうのか。道すがら木陰で涼む公園と、異国の地で夜霧を割きながらぼくを北へと連れてゆく列車と、どうちがうのか。無意味な境界線を消してみると、「家」は、思っていたより自由な気がしたのだ。

 

 

ぼくは、建築について、住環境について、明るくない。古民家再生、地産地消の家、ストローベイル、パッシブハウス。有用な情報は様々あって、正解と不正解もありそうだ。でも、「正しさ」からは始めない。なぜなら、正しい家じゃないからだ、作りたいのは。自分史上最高の居場所、それは、ぼく自身であること。ならば、家について知ること以上に、自分自身を知る必要がある。何が好きで、どんなことが心地いいのか。それを探る上でひとつ、キーワードを見つけた、それが「暗いぐらいの家」。どんな物語が待っているのだろう。連載だから、ぼくにもわからない。一緒に旅してもらえたら、心強い。

 

 

 

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