諦める

 

最近はもっぱら詩やデザインを通しての交流が多い。そんななか、初対面の人に『かたりべからす』の感想をもらったりする。ストーリーだけでなく、加えてあとがきについても、言葉をいただく。あとがきには、「仕方がない」と「仕方がないなあ、もう」の、異なる“諦め”についてのことを書いた。後者のほうが生きやすく、またこれからの時代を生きるに必要な居方(いかた)ではないか、という意味だったと思う。世の中は、「諦め」を「挫折」と一緒くたに解釈して忌み嫌うが、本来は「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味だ。ものごとの道理をあきらかにしてみた結果自分の思いが成就しなかった場合があるから、ぼくらは「諦め=挫折」としてしまうのかもしれない。「諦め」のもっとも楽しい対象は、やっぱり「自己」だと思う。「ああなりたい」という願望を抱きしめながら、「どうしよくもなくこうである」という事実とがっぷり四つ対面したときの、痛快さといったら!たいていの場合、「ああ」はなれない。「ああである」ことは自分にはできなかったが、同時に、「こうである」ことも自分以外にはだれひとりできないのである。その特権に感じ入ることができるか、否か。それぞれがそれぞれに重い人生を歩んでいるから、そう簡単な話ではないのだけれど、それでも、ぼくはそれが幸せの分水嶺のような気がする。

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