暗いぐらいの家 #5 闇を、抱きしめる。

いまぼくの目の前に、ある図面が広がっている。照明とスイッチ、それにコンセント、その種類や数、位置を決めるための図面だ。

玄関、廊下、リビング、キッチン、バスルーム、トイレ、クローゼット、寝室、階段、踊り場、ゲストルーム、ギャラリー。それぞれの部屋に、どんな種類の照明を、いくつ設置するのか。その照明を不便なく操作するためには、スイッチはどの壁に、どの高さにあればいいのか。暗さと明るさのいい案配は、どんなシチュエーションであるべきなのか。スコットランドの旅から帰ったぼくを、その問いが待っていた。

 

 

平面から立体を的確にイメージすることは、想像以上に難しい。家だけじゃない。他者、未来、心。かたちのないもの・実感の伴わないものをイメージすることは、ぼくら人間にとって、なかなか困難な作業だ。

たしかに、「想像力は、人間の翼」かもしれない。しかし、たとえば、ある歌のなかで謳われた「想像を超えて心は理解しがたい」という言葉のほうが真実味を帯びていて、少なくとも、ぼくは後者を聞いたときのほうが、よほど心が安らぐ。

 

 

 

 

「暗さ」の価値に気づいたのは、スコットランドの旅が最初ではない。

 

ウチダ青年が「どのお宅にも世話にならない」と心に決めた(第一話参照)、あの頃から、さらに遡ること数年。高校生だった彼は、その年頃では誰もがそうであるように、心のなかの光と闇に戸惑っていた。広がりつづける闇に、光が飲まれそうになるたび、自分の行く末を案じた。何とか踏み止まりたくて、ファッションにお金を投じてみたり、異性に救いを求めてみたり、光り輝いてみえたものを、手探りでかき集めた。そして闇を追い出すためにも、ありとあらゆる手を尽くした。詩を書くことも、そのひとつ、だったかもしれない。

 

 

 

光と闇。世界を造り上げるふたつの対照軸がせめぎあう物語は、国を超え、言語を超え、時代を超え、常に語られ続けてきた。

 

 

ネイティブアメリカンのあいだで長く語られてきた伝説のひとつに、世界に光をもたらしたワタリガラスの物語がある。ぼくが最初に読んだ物語は、1984年、ハイダ族のアーティスト、ビル・リード氏によって書かれたものだった。

すべての世界が闇に覆われていた、ある時代。一人の老人が何重にも重なった箱のなかに隠していた光を、ワタリガラスが盗み出す話だ。なぜ老人は、光を箱に隠していたのか。それは、自分の娘が醜いのかそうでないのか、その答えを知ることを恐れたから。

最初に闇があるという世界。光を恐れるという人の心。闇に怯えるばかりだったかつてのウチダゴウは、面食らったことだろう。

 

 

やがて、ウチダ青年は、今まで虐げてきた闇を、慈しむ手段を探しはじめる。光と闇の均衡を保つには、どうしたらいいか。

実家から電車で1時間ほどのところにあった農村に、神道や仏教が根づく以前の民間信仰・白山信仰の跡を見つけて、ひとり毎週のように訪ね歩いた。当時深く携わっていた環境保護運動のなかで出会った東京・高尾山では、照明器具を一切使わない夜の登山を、毎年企画した。心に湧いた恨み・妬み・嫉みを、悪しきものと断罪する前に、ただひたすら抱き続けた。

 

闇を、親愛の情をもって、抱きしめる。
光に対してするのと、同じように。

 

それこそが均衡の鍵だと分かりはじめた頃、その理解を決定的なものにしてくれたのは、アーシュラ・K・ル=グウィンによる長編ファンタジー『ゲド戦記』、その冒頭の詩だった。

 

 

 

 

Only in silence the word,

only in dark the light,

only in dying life:

bright the hawk’s flight on the empty sky.

 

 

ことばは沈黙に

光は闇に

生は死の中にこそあるものなれ

飛翔せるタカの

虚空にこそ輝けるごとくに

 

(清水真砂子訳・岩波書店)

 

 

 

 

 

 

いま、詩を書くのに、多くの言葉は必要なくなった。活き活きと生きることに怖れがなくなった。いずれ死ぬことができるという確かな安堵がそこにあると知ったからだ。あの時代以降、ぼくは光を考えるとき、まず暗闇を想うようになった。瞳を閉じれば、いつもそこには深い闇が待っていてくれる。やがて光が差し込むまで、ずっとそばにいてくれる。

欠けていたもうひとつのパーツが、やっと嵌った。もうこのまま在ればいい。そんな実感がある。

 

 

 

新居が建つ予定地は、森の中だ。いま暮らしている松本で感じるような、強い光はあまり想定できない。それに森のほうが湿気も溜まるから、日照も雰囲気も、放っておけば、暗闇だらけにできる。でもそれは、愛じゃないだろう。大切なのは、光と闇の均衡である。光が美しく輝ける、そのための闇。闇が静かに佇むことができる、そのための光。その“ちょうどいい”バランスを、ぼくは作ってやらなければならない。

日も落ちた庭の暗闇が、リビングの大窓に映る。その隣で温かな料理ととともに過ごすダイニングには、どんな灯りが降り注ぐのか。夜の海のように深い濃紺のバスルームに、星の光は、どこに瞬くのか。木漏れ日が柔らかく差し込み、熱い紅茶から湯気が立つ。そんな朝を迎えた仕事部屋の美しさを、夕暮れ時、どんな照明で迎えてあげたいか。

さて、そのために、この図面はどうあるべきなのだろう。仕事が終わり、夕食の後片付けも済んで、瞼が重くなるまでのわずかな時間。光と闇の柔らかな均衡を探して、ぼくと妻の家族会議は、今日も続く。

 

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