暗いぐらいの家 #3 裏庭に棲む

2016年10月3日、ぼくは丸一か月におよぶ旅に出た。松本を発ち、カタール・ドーハでのトランジットを経て、総計30時間。英国北部・スコットランド、人口規模第一の都市・グラスゴーにいる。この街で初めてとなる個展を、4日間だけ、開くべく。

 

 

 

 

「TRAMWAY THEATRE」は、元来、1893年に建設された路面電車の発着場および車庫だった。それが2003年、スコットランドナショナルバレーカンパニーのホームスタジオであると同時に、さまざまなアートイベントを開催する施設へと生まれ変わる。Pollokshields East 駅を降りてすぐ、この小さな看板が目印だ。

 

 

 

 

 

ぼくの個展が開催されている会場は、「THE BOILERHOUSE」という名前の建物で、読んで字のごとく、元はボイラー室だった。TRAMWAYの裏庭「THE HIDDEN GARDENS」に位置する。

それはまさに“隠された庭”で、劇場の奥にこのような庭があることを、表の通りから誰も窺い知ることはできない。数々のハーブや草花がそよぐ石垣の花壇、空の青さを際立たせる赤いレンガの背高な煙突、絵を描きたい人や詩を書きたい人がひとり籠れる小屋、柔らかな風と日差しが注がれる東屋、さまざまな国籍の移民や子連れの家族たちが思い思いに過ごす広い広い芝生。とても穏やかで、優しく、美しい庭だ。

こちらに来ると、poetryこそが源であることを思い知らされる。絵画も、写真も、戯曲も、歌も、コンテンポラリーアートも、料理も、造園も、建築も、デザインも、poetryなしには生まれ得ない。そして、おそらく、人生さえも。

 

 

 

 

 

この庭をデザインしたのは、グラスゴーのランドスケープデザインオフィス「erz studio」。オフィスを率いるロルフの妻・フェリシティに出会ったのは、2015年のエディンバラだった。個展会場に娘とやってきた彼女が「次はぜひグラスゴーで」と声をかけてくれて、この開催が実現した。およそ1週間の滞在先も、彼らの家だ。

 

 

娘ふたり息子ひとりとシッターの総勢6人が暮らす彼らの家は、少し郊外の、大小5部屋と広いキッチンのある、テラスハウスだ。南東に向いた前庭には、4本の白樺が、幼い妹を見守るまだ若い兄たちのように、小さなブランコを囲んでいる。子どもたちの自転車は芝生に寝そべり、気取らないベンチの足もとには、フェリシティのハイランド地方での拾得物・羊の頭蓋骨が転がる。鈴なりに白い実をつけたシンボルツリーが、スコティッシュブルーの戸の前で、朝夕寒そうに震える。

 

 

二重扉の玄関を入ると、左手にはリビング。前庭と通りを望める、ただひとつの大きな窓が、光を採り込む。反対側の壁には、ロルフの父親から譲り受けた古いピアノがある。弾いてみようと試みるも、以前ひどく乱雑に扱ったまま調律が狂ってしまったらしく、そのままになっていた。代わりに、いまは家族写真が並ぶ。2012年に屋根裏部屋を借りたフレーザー家も然り、こちらの人たちは家族の写真を必ず飾る。それも所狭しと、たくさん。最初の数日、ぼくはこのリビングの一画に借り暮らしをした。

 

 

二階へ続く階段には、フェリシティの父親によって描かれた大きな絵画が、飾られている。階段の真上の天井はトップライトになっていて、光がそのまま階段まで延びて、特に夕方、この絵はもっとも美しい色になる。晴れ、曇り、雨、雪——すべての天候を一日で体験することができると言われるほど、スコットランドの天気はめまぐるしく変わる。突然現れる晴れ間は、スコティッシュたちにとって、絶対に逃したくない幸せな時間というわけだ。わずかな光さえ家のなかへ採り込みたいと願うのは、当然のことだろう。

地下にあるのは、広いキッチンだ。キッチンの北西はガラス張りで、裏庭へと続く。灰色猫のモス(名前の由来は、苔を意味する「moss」ではなく、蛾を意味する「moth」のほう。蛾みたいに綺麗な灰色なのよ、とフェリシティは教えてくれた)は、彼なりの定刻になると、裏庭からやってきて、戸を開けるようせがむ。供されたディナーをつまんで、二尾の金魚が泳ぐ水槽の水を飲んだら、また屋外へと戻ってゆく。

 

 

裏庭には芝生が敷かれ、1本の銀杏がすらりと立つ。その先にあるのは、大人ふたりがギリギリ入れるほどの、小さな木製のサウナ。サウナの入り口のシャワースペースは、古いウィスキー樽の壁に取り囲まれ、目隠しの配慮もされている。ハロウィンを待つ10月初旬、サウナの天井にはいくつもの南瓜が並んでいた。キッチンからガラス越しに見えるその南瓜たちは、橙色に灯るランタンのようで、夜はもう10度を下回るはずなのに、うっかり暖かい気がしてしまう。

地下への階段から、裏庭、サウナまでのこのスペースは、ランドスケープデザイナーであるロルフの真骨頂が発揮されていた。サウナで使われる水は降り注ぐ雨水が利用されていて、樋から落ちた雨水が流れる水路は、芝生の下をくぐってサウナへと続いている。この下りは、息子のリオンが、まだ甲高いその声とパワーみなぎる手足を存分に使って、自慢げに説明してくれた。彼と妹のアイリスが遊ぶ小さなツリーハウスも、戸口のすぐ脇に秘密基地のようにあって、リオンはやはり自慢げに登ってみせる。まるで、親友のハックルベリーとともに野を駆ける、トム・ソーヤのように。

 

 

 

 

 

レイチェル・バーンズ!私があれほど『裏庭(バック・ヤード)』って言葉を使わないでくれって言ったのを忘れたんですか。『前庭』なんて、ただの玄関に過ぎないんです。いわゆる『裏庭』こそが人生の本当の舞台。『裏庭』こそが生活の営みの根源なんですからね、きちんと『庭(ガーデン)』と呼んで下さい。

 

上記は、ぼくの人生の分岐点のひとつとなった一冊、梨木香歩著『裏庭』の一節。とても印象に残る箇所で、この本のファンなら必ず取り上げるだろう(当然すぎて芸がないと思えてしまうくらい)、名台詞だ。誰の心にもある「裏庭」は、バック・ヤードとして軽んじられればたちまち荒れていくが、ガーデンとして真摯に丁寧に手をかけることで豊かな庭となる。大学生の頃にこの物語に出会って、ぼくの人生は少しずつ、豊かなものへと変容していった。

誰からも見えることのない「裏庭」を日々観察して、手を加え、ときに成り行きに任せながら、愛で、尊ぶ。「通り」を急ぐ人や「前庭」に神経を尖らせる人にとっては、一切が無駄といえる、この行為の連続。これこそが、実は、私を「私」たらしめるのだ。いま、ぼくらの世界は、「前庭」すら放ったらかして、「通り」を闊歩することに躍起になっている。私たちの大切な「裏庭」が、ついぞ「バック・ヤード」とだけしか呼ばれなくなっていることに、誰も気づかないまま。

 

TRAMWAY THEATREの古びたスロープを、かつてここに暮らした馬たちの蹄の音が、亡霊のように行進する。THE HIDDEN GARDENSの芝生に立つ1本の銀杏は、ひとすじのスポットライトを浴びて嬉々とする若いバレリーナだ。大きな黒い蜘蛛が夜ごと窓辺にやってきては、玄関先の真白な木の実に恋の糸を爪弾くのを目撃したし、かたや裏庭では、まだぼくの知らない秘密の扉をくぐって、灰色猫が心の旅に出かけるかもしれない。

グラスゴーで深く出会うこととなった2つの空間には、奇しくも裏庭があった。どちらの空間も、そこに集うひとたちに深く愛され、静かに、活き活きとしていた。そういうところには必ずと言っていいほど、物語が、詩が暮らしているのだ。

 

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