言葉の呪術性 考

言葉の呪術性について、作家の田口ランディ氏が自身のブログで、彼女なりの視座を明らかにしていた。­話の契機は、大津市の中学校で起こったいじめによると思われる自殺事件であると思われる(文中には直接そのことについて触れられてはいないので、ぼくの解釈)。氏は、「いじめ問題」や「教育問題」のように、「問題」と語ることによって、自らも加害者になりうる、あるいは潜在的に加害者であることへの怖れや罪悪感から逃れようとしているのではないか、と指摘していた。そして「問題」という言葉がもつ呪力とは、ひとつは加害者意識に罪悪感を感じるぼくたちを常に「問題を提起する側」に押し上げて「全能感」に酔わせることであり、もうひとつは、「答えがあり、解決できるという」安易さであるとも言及している。とても鋭い指摘で、自らを省みる機能をまだ持ち合わせている人間なら、誰もが我が身にも思い当たる節ありと、少なからずハッとする内容だった。

ぼくたち人間は、言葉を主たるコミュニケーションツールとして生きようとする生きものだが、近ごろは、言葉が自らの意図以上に、あるいはそれに反して他者や自身を傷つけることを怖れて、自ら語ることをあえて控える人も多い。がしかし、というべきか、そのため、というべきか、そういう彼らは、呪力をもった言葉にとても弱い。会社や世間では、その固定的で限定的な価値観を信奉し、あるいは、宗教やオルタナティブな思想にのめり込む場合もある。自らが発する「呪力をもちうる言葉」に怯え、塞いでしまおうとする反面、他者から発せられる強い呪力をもった言葉に免疫力がなく、ときには縋ってしまうことさえある。そして、世間の既存の価値観とは別のありかたを目指して、オルタナティブであろうとした人のなかにも、その術中にはまるケースは多い。「世間」側であろうと「オルタナティブ」側であろうと、自らを自分以外に預けてしまった時点で変わりはないようだ。個人が消えて「会社員」になってしまった友人も、スピリチュアルに過度に傾倒して「神」になってしまった知人たちも、それぞれが属するコミュニティーの他の人間と同じ言葉、同じ口調、同じ表情で語る。それぞれ別の人生を歩み、今なお別々の血を流しているのにもかかわらず、誰かの発した強烈な呪力をまとった言葉に自らを預けてしまう。そうして自分不在になった状態は、それ以前よりもさらに不安定なものになるので、さらに強い呪力を求め、帰属しようとする。

『ゲド戦記』の著者・ル=グウィンは、その後、『西のはて年代記』という物語を書いている。類い稀な強い力を授かって生まれた少年が(上巻『ギフト』)、力に翻弄されながら、やがて語り部として世界を歩き(中巻『ヴォイス』)、やがて真の力を手にする(下巻『パワー』)、壮大な物語だ。強い力を持った者はその力をどのように育み、ともに生きるべきなのか、その道しるべが描かれている。『ゲド戦記』にしても、『西のはて年代記』にしても、主人公たちは、決してその力を放棄しない。なぜなら、力の放棄こそ、力を暴走させる契機であるからだ。すなわち、力は呪力と化してしまう。同時に、力を妄信しない。なぜなら、力の妄信こそ、力がその主を憑依する契機であるからだ。そうして、力は呪力と、やはり化してしまう。

詩人たちの多くが孤独を選ばざるを得ないのは、ひとつには、こうした言葉の呪術性・呪力に自らが取り憑かれないようにするためだと思う。言葉の発生源にもっとも近いところで向き合っているぶん、自ら発した言葉に自ら憑依されてしまう可能性が高い(と感じている)。そしてもうひとつは、自らの言葉が、他者を呑み込まないようにするためでもあると思う。本物の詩人は、人々が個々に発する言葉のすべてが、その人々自身の言葉であることを切望している。決して、詩人の言葉が人々の言葉になってほしいとは願っていない。言葉を見つめつづける自らの詩が、うっかり、他者を呪ってしまわぬように、常に自らを疑い、緊張している。

間違えてほしくないのは、詩人の言葉がもし仮にぼくたちの心を揺さぶったとき、それはその言葉が「答え」だからではない。その詩人がその言葉を発するにあたって、自らの暮らしのなかで長い時間をかけて考え、吟味し、迷い、関わり、精査したというプロセスがあったからであり、またその経緯が今なお彼のなかで続いているからだ。詩人の言葉に限らず、言葉というひとつのツールがその真の力を発揮するのは、「答え」や「解決方法」という終点においてではなく、そういう永遠の営みのなかにあるときのみだ。

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